サントリーホール モーツァルト&ダ・ポンテ三部作 2008−2010 ホール・オペラ モーツァルト:ドン・ジョヴァンニ[公演情報]
ラヴィア、ルイゾッティ、そして適材適所の歌手たち。躍動感あふれる、これぞ求めていたモーツァルト!
走、攻、守の三拍子が揃った野球選手になかなかお目にかかれないように、 指揮、歌手、演出の三拍子が揃ったオペラ上演に出会うチャンスは少ない。 どの方向から評価しても隙がないパフォーマンスは、理想ではあるけれど稀有である。 数少ない例は、野球ならさしずめイチロー選手だろうか。では、オペラなら?  私は真っ先に、昨年のホール・オペラ《フィガロの結婚》を挙げたい。


ホール・オペラ「フィガロの結婚」より

細部のニュアンスまで丁寧に描かれながら、全体としては物語が活き活きと躍動的に進み、 なおかつモーツァルトらしい官能にも事欠かないという点で、ラヴィアの演出とルイゾッティの 音楽づくりが同じ方向を、高い水準で向いていた。そして歌手たちがすばらしかったこと。 アンサンブルが重視されることが多い《フィガロ》にしては、個性豊かな歌手が並んでいた。 が、伯爵のヴェルバも、スザンナのデ・ニースも適材適所で、そのうえイタリア語が母国語か、 母国語並みに使いこなせる歌手ばかりだったので、イタリア語の響きとアクセントを前提に 書かれた《フィガロ》の美感が花開いた。事実、“イタリア・オペラ”であるダ・ポンテ三部作は、 初演のころはほぼイタリア人歌手によって歌われていたのである。
こうして三拍子が揃うと、舞台の完成度は相乗効果でさらに高まる。私は初日を観て 「こういうモーツァルトを求めていたんだ」と思い、何人かの知人に「今まで内外で観た モーツァルトのオペラのなかで一番よかったから」と薦めたが、結果、ホールに足を運んだ人の多くが、私 と同じ感想を口にした。
ラヴィアの演出は、ひとつとして奇をてらうところがなかった。今どき珍しいほどに正攻法で、 登場人物の性格づけも、相関関係も、ト書きを外れていない。薄汚れ、踏みつけられた絵画が 敷き詰められた舞台装置が、旧い貴族社会が崩れゆくさまを描いているのは一目瞭然だったが、 ラヴィアは新旧の階級の対立という構図を前面に押し出すわけではない。 しかし、動作の細部までが作りこまれた人物たちが舞台を縦横に走り回ると、手放しに楽しい舞台が 現出するのと同時に、その闊達な世界の背後に、登場人物がそれぞれに抱えるわけありの事情や、 状況の複雑さがのぞき見えのるのだ。


ホール・オペラ「フィガロの結婚」より

これまでに、どれだけ多くの“深刻な”モーツァルトを見せられたことだろう。 演出家の“解釈”の結果、人間関係はねじれ、各人は深く苦悩し……。 たしかにダ・ポンテの台本を深読みすれば、そういう解釈も不可能ではなかろうが、 しかし、ダ・ポンテは“苦悩”や“階級対立”をト書きの裏に隠し、ことさらに強調していない。 それは、モーツァルトの表向きは快活きわまりない音楽を聴いても明らかだ。 ラヴィアの演出が教えてくれたのは、ダ・ポンテ三部作ほどの奥行きの深い作品は、 すぐれた演出家が台本と音楽を丁寧に読み込み、それを真っ直ぐに掘り下げることが、 “苦悩”をも含めた彫りの深い人間ドラマを描く近道だという事実である。 上等な演出とはこういうものだろう。“考える人”で、ハイデッガーやベルグソンといった哲学者の名を 日常的に口にするラヴィアは、皮相な“解釈”を聴衆に押しつけるような野暮なことはしないのである。


ラヴィア

さて、《フィガロ》の薄汚れた絵画から一歩進んで、《ドン・ジョヴァンニ》の舞台装置では、 なんとサントリーホールが崩れている。モラルが崩壊した世界を、稀代の色事師が駆け回ったとき、 何が見えてくるだろうか。


ドン・ジョウ゛ァンニ舞台

ラヴィアによる躍動感あふれる舞台とよくかみ合っていたのが、フォルテピアノを弾きながら指揮した ルイゾッティの音楽づくりだった。この指揮者のプッチーニやヴェルディがいいのは知っていたが、 失礼ながら、これほどエネルギーと推進力に富む、活きたモーツァルトを聴かせるとは知らなかった。 俊敏で、明快で、勢いよく進むその音楽には、しかつめらしいところがなく、聴き手の心も躍動させられる。 それはこのごろ多い深刻ぶった演奏の対極にあるけれど、むしろそういう演奏だからこそ、ときに官能が色濃く漂い、 モーツァルトの音楽が快活さの裏側に隠し持っている言いようのない悲しみまでもが、随所ににじむのである。 もうひとつ、ルイゾッティについて特筆すべきは、歌手のアンサンブルのつくり方だろう。無理に響きを抑制せず、 個性的な歌手たちに思い思いに歌わせるのだが、言葉のアクセントや響きの方向性だけは一致させる。 すると、イタリア語のアクセントを軸に、一見したところではバラバラの個性をもった声が、バラバラがゆえに 多彩な色合いを帯びて重なり合うのだ。これはラヴィアの演技指導も相まっての効果だろうが、壮観だった。 ルイゾッティのエネルギッシュな音楽が、《ドン・ジョヴァンニ》のデモーニッシュな官能を対象としたとき、 どのように響くのか。これは楽しみでしかたない。


ニコラ・ルイゾッティ

“三拍子”の最後、歌手について。昨年の《フィガロ》で伯爵を歌ったマルクス・ヴェルバを聴いたとき、 彼のドン・ジョヴァンニを聴きたいと思ったが、それが早くも実現してしまった。ノーブルなバス・バリトンの響きが 魅力なのはもちろん、感情を表現するために安易に叫んでしまう歌手が多いなかで、ヴェルバは叫ばない。 常にエレガントな旋律線を崩さずに、声の色合いによって感情を表す。これは難しいが、じつはとても大切なことで、 色事師とはいえ、誇り高い貴族であるドン・ジョヴァンニなら、なおさらそのように歌ってほしいのだ。 ヴェルバはイタリア語も美しい。オーストリア人ではあるけれどイタリア国境近くで生まれ育ったため、 イタリア語が第2母国語なのだという。いかにも女性にモテそうな端正な容姿も説得力がある。
また、深く朗々たる声を持つ演技巧者のマルコ・ヴィンコは、レポレッロにうってつけだし、温かみのある美声による 気品あるフレージングが持ち味のセレーナ・ファルノッキアは、現代最高のドンナ・アンナではないだろうか。 また、05年の《ラ・ボエーム》で、代役にもかかわらず、一線級のイタリア人ソプラノに引けをとらない歌心あふれるミミを 歌った増田朋子のドンナ・エルヴィーラが楽しみだ。彼女はアジリタが絶品だから、これもお誂え向きになりそうだ……と、 昨年に続き、今年もかように適材適所。



ヴェルバ/ファルノッキア/増田朋子

さあ、揃った“三拍子”が、今年はどこまで弾むだろうか。

香原斗志◎オペラ評論家、音楽ジャーナリスト


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2009-03-31 17:07 この記事だけ表示
 
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