適材適所の妙!チューリッヒ歌劇場の豪華歌手陣[公演情報]

 やっとつかんだ幸せは、恋人の父親によって引き裂かれ、寂しく病に倒れるが、辛うじて恋人が死に際に間に合って……。《ラ・トラヴィアータ》(椿姫)には、ちょっと紙一重のところがある。いい演奏で聴くと、涙腺が壊れてしまうほどの事態になるのに、観る(聴く)方が冷めていると、クサい田舎芝居みたいに思えてくる。たとえば、あの韓国ドラマ「冬のソナタ」などもそうだ。節目ごとに主人公が交通事故に遭うご都合主義は冷静になればバカらしいのだけれど、主役のヨン様ことペ・ヨンジュンとチェ・ジウの絶妙な演技(とルックス)のおかげで、一見バカらしい展開は、むしろ観る人を引き込む有効な装置になっていた。  《トラヴィアータ》がこれだけ頻繁に上演されながら、十分に満足できる演奏に出会ないうえに、食傷気味の人が増えている理由もそこにある。ヴィオレッタという役、あまりにも多くのソプラノが歌うから、誰にでも歌えると思いがちだが、それは誤解。たいへんな難役なのだ。1幕で華麗にして繊細な装飾を歌いきった直後、2幕では揺れる心をドラマティックに表し、死が迫った3幕では、さらにそこにピアニッシモを加える。言ってみれば、浅田真央ちゃんがトリプルアクセルを決めた直後に、岡崎朋美と並んでタイムを競わなきゃならないようなもので、そりゃあ難しいよ、っていう役なのだ。そこで、エヴァ・メイの登場である。

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 なにしろメイは、歌の精度がすばらしい。元々、ロッシーニの装飾たっぷりの旋律を正確に歌うのが得意な彼女、〈花から花へ〉のコロラトゥーラなどお手のものだが、それだけでは終わらない。楽譜が要請するとおり(多くの歌手は楽譜の指示どおりには歌えない)、いや、それ以上に、フォルテからピアノの間を自在に行き来して、ヴィオレッタの揺れる感情を細やかに表現する。これぞベルカント! と言うのも、カストラート(去勢歌手)が中心になってベルカント唱法が最高度に発展した18世紀、歌手に求められたのはまさに、音の強弱を自在に操ることだったのだから。さらに、本来は繊細な声なのだけれど、中音域もマスクにきちんと響かせることができるので、2幕以降はドラマティックに、しかも柔らかいピアニッシモを織り交ぜながら、深いドラマを表現してしまう。  技術的な話に偏ったけれど、メイの場合、持ち前の可憐でありながら色気を湛えたちょっと硬質な美声がヴィオレッタのイメージどおりで、そのうえ歌心があり、容姿も麗しく……。いいこと尽くめのようだが、本当だから仕方がない。完全無欠のヴィオレッタといえば、マリエッラ・デヴィーアも浮かぶけれど、声と容姿のヴィオレッタらしさという点では、メイだ。

 ジェルモンはレオ・ヌッチときた。ここしばらく、ヴェルディをそれらしい品格を保って歌える生粋のイタリア声のバリトンが出てこない。高い満足度を得られるのは、相変わらずヌッチとレナート・ブルゾンである。他にいないわけではないが、この二人と比べるとどうしても小粒なのだ。  ブルゾンのジェルモンは、定評があるし、アリア〈プロヴァンスの海と大地〉など涙なしに聴けないし、ヴィオレッタとの丁々発止にも父親の情感があふれ……が、あえて言えば、そこに違和感がないでもない。だいたいジェルモンは、ヴィオレッタに命を縮めるほどの過酷な自己犠牲を強いた直後に、能天気に「明るく楽しく生きろ」なんて言ってしまう、利己的で無神経な男なのである。なのにちょっといい人過ぎないか――。一方、品位と父性に、男の醜いエゴを交えて歌えるのはヌッチだろう。

 02年のボローニャ歌劇場公演で《セビリャの理髪師》のフィガロ役を聴いたときには驚いたものだ。たしかにフィガロはヌッチの当たり役ではあったけれど、長年、ヴェルディの重量級の役を歌ってきた彼には、声を柔軟に回さなければいけないフィガロは、もう無理なんじゃないかと思っていたが、未だ最高のフィガロだった。これはヌッチのテクニックが本物である何よりの証。60代半ばになっても衰え知らずなのも、そのためである。  アルフレードを歌うポーランド人のピョートル・ベチャーラに触れる余裕がないが、若さと情熱を表現できる声で、音楽的な精度も高い、とだけ言っておこう。

 《ばらの騎士》というと、いつも付いて回る言葉は「豪華絢爛」。実際、オーケストレーションはなんともゴージャスだが、それは金銀を塗りたくっただけのうわべの豪華さとは似て非なるもので、金糸銀糸を丹念に織り込んだ最高級の西陣にたとえても、たとえ切れない。とにかく繊細で、優美で、微妙で、陰影に富んでいて、登場人物の心のひだまでも管弦楽で描いてしまう。ちょっと想像を絶するくらいの熟達したワザなのである。  が、聴く方はそれに酔っていればいいけれど、歌手はそうはいかない。その“熟達したワザ”がそのままプレッシャーになる。オーケストレーションに負けないように、豪華絢爛な雰囲気を維持しながら、繊細に微妙に歌わなければならないのだから。そのうえ、このオペラのテーマとも言うべき、若い恋人から身を引く元帥夫人の諦めは、それ自体が直接描かれるのではなく、あくまでも“醸し出される”もの――。うーん、とてもじゃないが、一筋縄には表現できない世界だ。

 だから、まず元帥夫人役は、細やかな表現ができるテクニックはもちろんのこと、声に気品が備わっていなければ話にならない。そこで、ニーナ・シュテンメである。スェーデン生まれの彼女の声には、北欧の森や空気に通じる透明感があり、雑味がない。まさに、R・シュトラウスが書いたオーケストレーションのように、立派なのはもちろん、そこに品位が同居している。  彼女がブレイクしたのは、一昨年夏のバイロイト音楽祭での《トリスタンとイゾルデ》。以来、ドイツ・オペラ・ファンの間には彼女の“追っかけ”が少なからず生まれている。残念ながら、私は生の舞台には接することができなかったが、録音で聴いて驚いた。その透明で品がある美声にはイゾルデを歌うのに必要にして十分なボリュームがあるうえに、豊かな声の人がたいていは苦手な、陰影に富んだ微妙な表現がしっかりとできていたからだ。声量自体は元帥夫人役には使い切れないほどのボリュームだが、エンジンに十分なパワーがあるクルマはゆっくり走っても安心感があるように、このポテンシャルもありがたいのである。

(C)Marco Borggreve/Sony BMGMasterworks

 もう一方の要、オクタヴィアンは、琴欧州とヨーグルトの故郷、ブルガリア出身のヴェッセリーナ・カサロヴァ。あの、とびきり上等な漆器のように深々とした輝きを湛えた声自体、ちょっとほかの歌手には求められないものだが、それに加えて、テクニックが卓越している。ロッシーニ、モーツァルト、そしてバロック作品を得意としていることからもわかるように、その深い声にはめくるめく装飾を歌いこなせる柔軟性が同居しているのだ。

 すべてロッシーニ作品で埋め尽くされたリサイタルが東京で行われたばかりだが、アジリタ(短い音符の連なりを敏捷に歌うこと)のテクニックに圧倒されると同時に、声のつや、響きが、実に上質であることに、改めて驚かされた。深い声にちょっとボーイッシュな容姿がマッチして、とりわけズボン役、すなわち男性役がサマになっていて、舞台上でオクタヴィアンに扮したら、さぞ魅力的だろうな、なんて思いながら聴いたものだ。  ただ、ロッシーニを聴いて少しだけ残念だったのは、カサロヴァのイタリア語があまりイタリア語らしくないことだ。発声も、いわゆるベルカントのものとは違う。うーん、得意なドイツ語で歌ってくれたらもっといいんじゃないだろうか、なんていう思いにとらわれてしまった。そこで、やっぱりオクタヴィアン! カサロヴァの本領を体験できる日が待ち遠しい

香原斗志(かはら・とし)◎音楽ジャーナリスト >>チケットの詳細・申込


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