このオペラはこう歌われなければならない! ついに再来日!本家本元ドレスデン国立歌劇場[公演情報]

このオペラはこう歌われなければならない!

理想の歌手を揃えたドレスデン国立歌劇場

 

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 ドレスデンは2004年に世界遺産に登録されたのだけれど、それは私たち日本人の感覚では、にわかには信じられないことだ。だって、この街の85%は1945年の空襲で灰燼に帰したのだから。同じくらい破壊された東京や大阪が世界遺産に登録されるなんて、あり得ないじゃないか。なのに、ドレスデンではあり得たのは、復興の仕方がハンパじゃないからである。かつての面影なんてハナから無視して高層建築を無秩序に建てまくるわが国の都市と違って、ドレスデンの人たちは瓦礫の中から残骸を拾い集めつつ、できるかぎり元あったとおりに建物を再建し、ゲーテが「エルベ川沿いのフィレンツェ」と讃えた街並みを取り戻してしまった。

 もちろん、ドレスデン国立歌劇場(ゼンパーオーパー)も1985年、8年をかけた末に「世界で最も華麗」と謳われた姿を蘇らせたのだ。いやはや、この街の人たちが伝統に賭ける心意気たるや、並大抵ではないのがおわかりいただけるだろう。それは、オペラに対しても変わらない。とくにドイツ・オペラに対しては、伝統に即した様式を守り、ドイツらしい音を維持する、ということに、どれだけ心を砕いていることか。それが証拠に、この街が誇る世界最古の歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ドレスデン)は、これぞザ・ドイツ音楽と叫びたくなるような、深い響きを宿していることにかけては、間違いなく世界一だ。歌手の選び方だってそう。いたずらにスターを呼ぶよりも、その作品の様式や精神をきちんと表現するのに適した逸材を選んでいる。

 とりわけ、今回、日本で上演される3演目は、いずれもドレスデンで初演された作品だから、なおさら気合の入り方が違うというもの。あたかも、最近復興なった聖母教会にはめ込まれた古材のように、その作品になくてはならない人材が地道に選ばれている。


◆強靭な美声を備えた《タンホイザー》の歌手たち 

 

 まずは、ワーグナー《タンホイザー》。このオペラのタイトルロールは、強靭な声が求められるのはもちろんだけど、一本調子じゃ話しにならない。苦悩やら葛藤やらを、音を細かく操りながら表現できなければいけないのだから、なかなか満足なタンホイザー役には出会えないのである。そこで、ロバート・ギャンビル。生まれこそアメリカでも、ドイツで学んだ彼の声は強靭なうえに、官能的な、と言ってもいいくらい艶やか。2002年、ベルリン州立歌劇場来日公演の《ワルキューレ》で、これぞヘルデン・テノールというジークムントを披露してくれたが、とにかく美声が上から下まで乱れない。つまり完全にコントロールできている。理想的なタンホイザーと言っていいんじゃないか。

 ヴォルフラム役のオラフ・ベーアは、彼のドイツ語の美しさといったらない、という歌手。なんというか、魂が宿った言葉がこちらの心目がけて飛んでくるかのようだ。あの言葉の響きを伴って「夕星の歌」を聴けたらいいなあ、と思う。もうひとりのヴォルフラム、アメリカ人のアラン・タイトスは、新国立劇場の《神々の黄昏》でのヴォータンの、存在感ある名唱が忘れがたい。

 清純なエリーザベトはまず、アンネ・シュヴァンネヴィルムス。叙情的で、生娘のような純粋さも漂わせ、それでいてよく響くという、何拍子かそろった声の持ち主だ。《ばらの騎士》の元帥夫人なども歌える、細やかな表現も身についている。もう一人、フィンランド出身のカミッラ・ニールンドは、2004年のザルツブルク・イースター・フェスティバル来日公演で、サイモン・ラトル指揮の下、ベートーヴェン《フィデリオ》のレオノーレ役を歌ったけれど、男装してフィデリオに化けたって、その声じゃ女だってバレバレだよ!と言いたくなるくらい、フェミニンな声(容姿も)。それでいてよく響くから、エリーザベトにはぴったりだ。

そして、官能の世界を代表するヴェーヌスは、ワーグナーの聖地バイロイトでブリュンヒルデを歌っているエヴリン・ヘルツィリウスと、やはり、こちらもバイロイトのブリュンヒルデ経験者のガブリエレ・シュナウトという贅沢なダブルキャスト。シュナウトは、とにかく声帯が尋常じゃなく強い。よほどドラマティックに張っても声がかすれず、弱声でもフォームが崩れない。訓練以前に、からだの作りが違うんだ、と納得させられる数少ない歌手だ。

 

 


◆繊細さと気品に富んだ《ばらの騎士》

  

リヒャルト・シュトラウスの《ばらの騎士》はどうか。元帥夫人はアンゲラ・デノケだが、この歌手を聴き逃したりしたら損失が大きすぎる。《フィデリオ》のレオノーレを、《ワルキューレ》のジークリンデを、彼女ほど役に没入して歌いきった歌手はあまりいない。美しいドイツ語による繊細な表現。ピアニッシモの美しさ。そしてなにより、艶のある声が低音から高音まで実に自然に響き(自然に聴こえるくらい徹底的に制御しているのだが)、声を張るべきところではしっかり張れる。まさに元帥夫人の“諦念”を、声で醸し出してくれるはずだが、おまけに、その気品ある容姿まで元帥夫人みたい(ちょっと容貌に陰りが見えはじめているところも含めて)なのがいいではないか。

 オクタヴィアンは新鋭のメッゾ、アンケ・ヴォンドゥング。昨年末にもこの役をパリで、ヴェッセリーナ・カサロヴァの代役として歌って成功を収めている。若さが身上の“少年役”なだけに、若い声に大いに期待したい。透明な声と安定したテクニックで、今や日本を代表するソプラノに成長した森麻季のゾフィーも、大きな話題だといえるだろう。

一方、野卑なようでいて、貴族的な優雅な物腰にも欠けてはいけない(だから歌いこなすのが難しい)オックス男爵は、オーストリア出身のベテラン、クルト・リドルだ。たとえば、《ワルキューレ》のフンディングなどを歌っても、粗野な男に終わらず、いや、むしろジークムントが野卑に思えてしまうほど声に気品を漂わせてしまうリドルだから、オックス男爵のあるべき姿を示してくれるに違いない。

 


◆視覚にも聴覚にも理想の《サロメ》 

 

 

 最後に、同じR・シュトラウスの出世作《サロメ》。こちらはなんといっても、7枚のヴェールの踊りで、“聴く人”だけでなく“観る人”にも、これでもかというほどに濃密な官能を味わわせなければならないから大変だ。いやいや、現実には、タップリと肉が付いていて、頼むから見せないでくれよ、と言いたくなるようなサロメが多いのだ。それももっともな話で、この役にはかなりドラマティックな声が求められるから、そういう声の持ち主は自然とからだもドラマティックになり……というわけだが、そうでないのがカミッラ・ニールンドだ。

 エリーザベトのところでも触れたけれど、スラッとした長身で、女らしさをムンムンと漂わせているのだ。加えて、声もフェミニンで、表現はとても繊細で、なのによく響き、ドスも利く。サロメはこうでなきゃ。

 サロメが異常な愛を注ぐヨカナーンや、両親のヘロデとヘロディアスは、中堅どころの歌手でお茶を濁すことが多いが、この舞台では違う。なんと、ヴォルフガング・シュミット、アラン・タイトス、ガブリエレ・シュナウトという、《タンホイザー》の主役陣で固められているのである。となると、これは究極の《サロメ》になる可能性、大かもしれない。

 とまあ、さすが本家本元なのである。伝統という文化の血統が、体中の毛細血管まで行き渡っているだけに、ドレスデンは作品があるべき姿を見失わない。この作品は、こう演奏されなければいけない……。それはグローバル化の名の下に、その作品が本来持つべき“らしさ”を犠牲にしている各国オペラ界のありように対する、問いかけでもあるのだろう。

香原斗志(かはら・とし)◎音楽ジャーナリスト

 

 

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