濃厚すぎるほどの「ザ・ドイツ・オペラ」ベルリン国立歌劇場の卓越した歌手たち[公演情報]

濃厚すぎるほどの「ザ・ドイツ・オペラ」
ベルリン国立歌劇場の卓越した歌手たち

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 ベルリン国立歌劇場が名門であることに、誰も意義を挟めないけれど、その歴史は一筋縄では紐解けない。今から80年も前には、フルトヴェングラーやワルター、E・クライバー(あのカルロスのお父さん)、クレンペラーら、綺羅星のようなマエストロが棒を振っていた。が、ヒトラーが政権を掌握してからは、オーケストラに欠かせなかったユダヤ系の力ある団員たちが解雇され、名指揮者は次々に亡命し、挙句の果てに劇場は2度の爆撃で破壊され、1955年に復興するものの、61年にベルリンの壁が築かれて東側の位置したために孤立し……、という具合。まさに、ナチス以降のドイツの悲劇を地でいっているのだ。
 で、89年の“壁”の崩壊まで東独のオペラハウスとして、少々ひなびた存在になったのだが、衣食足りずとも文化予算はしっかり組むぞ、というのが当時の社会主義国。そのせいで貧しい暮らしを強いられた人には気の毒だが、なにはともあれ、オーケストラのアンサンブルの実力は、地味ながらも維持された。だから91年に、アルゼンチン生まれのユダヤ人、ダニエル・バレンボイムを音楽総監督に迎えるやいなや、名門のDNAが瞬く間に花開き、世界のオペラのひとつの“核”ともいうべき名声を得ることができたのだ。
 あの、聴き手を根こそぎ陶酔に引きずり込むようなワーグナーのうねり、活気と優美が両立したモーツァルト、シェーンベルクなど20世紀の作品で聴き手を圧倒する機能性――つまり、今回の3作品は、この歌劇場の魅力を全方位から確かめられるものだ――。こうしてオーケストラが輝けば、いきおい歌手も輝くというもの。たとえば、ワーグナーを上演すれば、聖地バイロイトもかくや、というほどの実力派歌手が集まってしまう。同時に、若い歌手も次々に育っている。理想的な好循環が起きているのである。

美声、美形ぞろいの《ドン・ジョヴァンニ》

 というわけで、まず《ドン・ジョヴァンニ》を覗いてみよう。外題役のドン・ジョヴァンニだが、神をも恐れぬ女ったらしも身分は貴族。それに彼は、けっして信念を曲げない英雄でもある。ということは、ノーブルな声が絶対条件だが(だって、荒くれ者やぶっきらぼうな男に、女性があまねくイチコロになるとは思えないではないか)、その点でスウェーデン生まれのペーター・マッテイはうってつけ。ノーブルな声を様式的な美しさを損なわずに響かせるという点で抜きん出ているバリトンだが、実はそれは、モーツァルトが求めた様式にも適っている。さらに言えば、表現にも容姿にも“チョイ悪”の雰囲気が漂っているのが、なおさらジョヴァンニらしい。表現に節度が必要なのは、従者のレポレッロも同じ。この役を弾けて演じると、吉本新喜劇になってしまう。端正に表現してこそ、滑稽味も醸し出されるというものだが、その点、ハンノ=ミューラー・ブラハマンは、まじめすぎるほど端正な歌手だ。
 女声陣はどうか。ドンナ・アンナは、オペラ・セリア(歴史や神話を題材にしたまじめなオペラ)のヒロインのような堂々たるアリアを歌う一方、なにしろ彼女が魅惑的でなければ、ドン・ジョヴァンニの物語は始まらなかった、という役。モスクワ生まれでまだ30歳そこそこのアンナ・サムイルの厚みのある美声と美しい容姿は、その意味でも説得力がある。一方、ドンナ・エルヴィーラはもう少し直情的な女性だが、ベルリン生まれでやはり30歳そこそこのアンネッテ・ダッシュは、繊細な表現と、ここぞというときのパンチが両立した美しいソプラノ。ツェルリーナのシルヴィア・シュヴァルツも美形でスタイルもいい。つまり、だれの容姿も声もドン・ジョヴァンニが惹かれて当然、という“女の魅力”があり、その点でも得がたいキャスティングである。

最高の布陣、究極の《トリスタンとイゾルデ》

 次に《トリスタンとイゾルデ》。これは、歌手にとっては、殺人的なオペラだ。トリスタン役のテノールは、オーケストラを突き抜ける劇的な声が必要なのはもちろん、たとえば第2幕では、そんな声を延々と響かせたのに続いて、イゾルデとの愛の二重唱を30分近くも歌うのだ。これは、半音階を多用した陶酔的な音楽だが、逆にいえば、こんなに長時間、聴き手を陶酔させなければならないってこと。さらに第3幕では、ついに命果てるまで、何十分もひとりで回想し、錯乱し、幻影を見て……、とにかく歌い続けなければならない。そんな芸当で聴き手を納得させられる歌手は、そりゃあ滅多にいない。そんな中で、いま最高のトリスタンは掛け値なしにクリスチャン・フランツだろう。まだ30代のドイツ男。瑞々しく、かつ輝かしい声自体も魅力的だが、ことこの人に限っては、トリスタン役にはつきもののスタミナ切れの心配が、まず要らない。
 イゾルデも負けず劣らず大変だ。第3幕のクライマックス「愛と死」では、官能が次第に高まってカタルシスに至るまでを、これほど見事に描いた音楽はほかにあるまい、という代物だが、だからこそ歌手にとっては荷が重いのだ。そこでワルトラウト・マイヤー。イゾルデ役のソプラノはとかく絶叫しがちで、そんなふうに愛だの官能だのを歌われると興醒めだが、マイヤーは絶叫とは無縁の歌手だ。陰りを帯びたその声を、あくまでも節度を保ってしっとりと響かせる。しかしながら、十分な響き。いま円熟の境地だが、あまり歳を重ねると歌えない役だから、まさに聴きどきだ。
 ブランゲーネには、東京のオペラの森《タンホイザー》で、裸身をさらしながら体当たりでヴェーヌスを歌ったばかりのミシェル・デ・ヤング。翳りある声は、ヴェーヌスよりむしろブランゲーネに合うかもしれない。マルケ王には、声の力強さと気品の両立、響きの深さと美しさという点で、まぎれもなくドイツ系のバスの最高峰であるルネ・パペ。クルヴェナルには、禁欲的なまでに様式美を保っている名バリトン、ロマン・トロケル。これ以上の《トリスタン》は、なかなか考えられない。

《モーゼとアロン》、切迫した真の声、真の響き

 最後にシェーンベルクの《モーゼとアロン》。モーゼは、イスラエルの民を救え、という神託を受けたけれども口下手なので、民衆を説くのに兄のアロンの力を借りる。が、民衆は結局、言葉よりも偶像を崇拝してしまう……。その“偶像”を、ヒトラーなり、世界の警察を自認するブッシュなり、郵政民営化が改革の本丸だ、と訴えた前首相なりに置き換えてみれば、この作品が今もって力強い生命を保っていることが実感できるのでは――。
 さて、シェーンベルクはそれを描くにあたって、調性を破壊し、12の音からなる音列からメロディも和音もすべて引き出したが、そこでは、理想をひとつひとつ、歌うというよりも語るモーゼと、下世話な現実を朗々と歌い上げるアロン、というふうに、対象となる二人を表現する方法も、はっきりと分けられている。で、まずモーゼ役のジークリート・フォーゲルだが、アクセントが効いた力強い声が持ち味のバスの大ベテランだ。この役は語りに説得力がないと成立しないので、単に“歌える”若い歌手には務まらない。フォーゲルは適任だ。アロンは、アメリカ出身のトーマス・モーザー。ちょっと暗めな厚い声で、それこそトリスタンなどが得意なドラマティック・テノールだが、もともとはモーツァルト歌手だったというだけあって、繊細な表現も得意。十二音技法の難解なフレーズを情感込めて歌うには、これもぴったりの配役だろう。
 また、この作品は合唱も主役のひとつだが、上演に当たってバレンボイムが2年間鍛えたという力強い合唱が、圧倒的な感銘をもたらせてくれるはずだ。

 ベルリン国立歌劇場はイタリア・オペラも上演するが、正直言って、配役にも響きにも違和感が残ることが多い。どうしても“ドイツ的”になってしまうのだ。それは裏返せば、ドイツものを上演すれば他の追随を許さないということ。今回の3演目を見ても、ドイツの血が濃すぎるくらいに濃いのである。ドイツ・オペラの魅力を濃縮して還元し忘れたジュースの原液、とでも言おうか。その強い刺激には、覚悟して臨んだほうがいいかもしれない。

香原斗志(かはら・とし)◎音楽ジャーナリスト


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