《フィガロの結婚》の奥行きが深〜く掘り下げられそうな期待[公演情報]
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 モーツァルトの最高傑作が《フィガロの結婚》であることに、異論を唱える人は少ないだろう。描かれている物語は決して単純ではない。むしろ登場人物の階級や立場も、人間関係や感情も、とても入り組んでいるが、モーツァルトはそれぞれの情景や登場人物の微妙な感情を、音楽によって完璧なまでに、適切に描いている。耳に心地よい音楽の向こう側には、社会風刺劇として、心理劇として、いつの時代にも通用する深い奥行きがある。
 だが、そんな“奥行き”が、《フィガロ》の公演であれば常に味わえるかというと、なかなかそうはいかない。ポピュラーな演目だから、年がら年中どこかで《フィガロ》が上演されている、と言っても過言ではないが、作品が本来持っている奥行きを深く掘り下げた上演に出会えることは、むしろ稀だ。

>>サントリーホール モーツァルト&ダ・ポンテ三部作
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 では、何が足りないのか。そのひとつの回答が、サントリーホールによるホール・オペラ《フィガロの結婚》ではないかと、今から期待している。理由は、これほど言葉にこだわっている上演は滅多にないからである。
 なぜ、言葉にこだわるのか――。ドイツ語圏のオーストリア生まれの作曲家による作品だから、《フィガロの結婚》はドイツ・オペラだと思っている人が多い。たしかに、昔からドイツ語圏でよく上演され、ドイツ語圏の歌手がよく歌ってきたけれど、本当はイタリア語の台本による“イタリア・オペラ”である。なぜイタリア語かといえば、18世紀後半のウィーンでは、オペラと言えば当時の音楽先進国イタリアのオペラだったからだ。
 ウィーンで初演されたのだから、怪しげなイタリア語で歌われたと思ったら、大間違いだ。初演の歌手はスザンナこそロンドン生まれのナンシー・ストーラスだが、フィガロはフランチェスコ・ベヌッチ、伯爵はパオロ・ステーファノ・マンディーニ、伯爵夫人はルイーザ・ラスキ=モンベッリ、ケルビーノがドロテーア・ブッサーニ……と、主要な役はほとんどイタリア人歌手で固められ、その点は再演で歌手が入れ替わっても変わらなかった。
 当時、ウィーンで上演された多くのオペラが、同様にイタリア人歌手によって歌われたが、《フィガロの結婚》には、さらに深い事情がある。モーツァルトの音楽は、ダ・ポンテが書いたテンポやリズムが小気味よいイタリア語をよく生かしている。というのも、モーツァルトは13歳からの3年数ヶ月の間に父親と3回のイタリア旅行に出かけ、耳がいい彼のこと、しっかりとイタリア語を身につけた。すでに第1回イタリア旅行の最中に、イタリア語の書籍をかなり読んでいるほどだ。つまりイタリア語の達人が、イタリア語の魅力を最大限に生かして作曲したオペラなのである。

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 当時のオペラは、アリアや重唱と、それとつなぐレチタティーヴォ(序唱)で構成されている。登場人物の心情は、旋律に乗って歌い上げるアリアや重唱で表現し、状況説明や物語の展開はレチタティーヴォが受け持つのだ。そして、かなりの部分をレチタティーヴォが占める。レチタティーヴォはレチターレ(recitare=朗読する)という動詞から派生した語で、元々「朗読の」という意味がある。ということは、あのイタリア語独特の抑揚やリズム、アクセントが生かされなければ、イタリア語を“レチターレ”することにならないのである。
 先日、新国立劇場の《フィガロの結婚》のフィガロ役で来日したロレンツォ・レガッツォと話をしたが、彼も「フィガロの魅力の半分はレチタティーヴォが占め、それが生きた言葉で歌われないと作品の魅力が半減する」と強調していた。ところが、残念ながら、美しいイタリア語にこだわった上演は、作品のオリジナリティが叫ばれる現代にあっても滅多にない。そこにこだわらないかぎりモーツァルトの意図から離れてしまい、作品を深く掘り下げることはできないはずなのに。
 そこでホール・オペラである。まず歌手を見てほしい。伯爵夫人は、まさに言葉のオペラ《ファルスタッフ》で来日し、美しい言葉とフレージングで圧倒的な存在感を示したセレーナ・ファルノッキア、フィガロは過去のホール・オペラでも端正な歌唱が印象深かったガブリエーレ・ヴィヴィアーニ。ケルビーノもバルトロもバジリオ&クルチオも、定評あるイタリア人だ。非イタリア人も、スザンナのダニエレ・デ・ニースら、イタリア語の達人として定評がある人たちが並んでいる。
 そんな選りすぐりの“イタリア系歌手”たちを、演出のガブリエーレ・ラヴィアがまとめる。この演出家、イタリアでは誰もが知る俳優兼演出家で、まさに歌手たちのレチタティーヴォを徹底的に鍛えるために呼ばれたという。そして、フォルテピアノを弾きながら指揮するのが、イタリア的なカンタービレが全身から湧き出るニコラ・ルイゾッティである。
モーツァルトとダ・ポンテが理想とした、音楽が生きた言葉と融合した《フィガロの結婚》が、ようやく3月に聴けるかもしれないと思うと、今から期待に胸がゾクゾクするではないか。

>>サントリーホール モーツァルト&ダ・ポンテ三部作
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 4月には、2006年のザルツブルク音楽祭でプレミエを迎え、世界的に大きな話題になった舞台が日本にお目見えする。この公演は、《フィガロの結婚》が内包する人間心理の深い奥行きを浮き彫りにしてくれるだろう。
白い装置に登場人物たちの衣装は黒が基調という、シンプルで美しい舞台。だが、そこで繰り広げられる人間模様の闇は、尋常ではない。アルマヴィーヴァ伯爵邸に住まうか出入りする登場人物たちは、一面、愛すべき無邪気な人間のようでいて、その心根は相当に病んでいる。
 伯爵は小間使いのスザンナと、伯爵夫人は小姓のケルビーノと、すでに“デキて”いるのかもしれない。そうしたことは、ダ・ポンテの台本でもほのめかされてはいるけれど、ドイツの鬼才クラウス・グートの演出では、かなり赤裸々に描かれている。が、単に不倫をしているという単純な関係ではない。相手への誘惑、誘惑された側の煩悶、そういう中で生じる猜疑心や、2つの感情の間で引き裂かれた苦しみ……といったものが鋭く描かれ、考えさせられる。
 まさに、サスペンス以上にサスペンスめいた犯罪が次々と起きる現代において、現代的な人間モデルを提示されているようで、《フィガロの結婚》という作品が本来内在する現代性が浮き彫りになる、と言えるのではないか。
 だが、そんな演出であればこそ、演奏が重要になる。冒頭にも書いたけれども、モーツァルトは《フィガロの結婚》のひとつひとつのフレーズに、その場面に適した深い意味を与えている。だから、各フレーズが、内在する意味を帯びて浮かび上がるような、彫りの深い演奏でなければ、こういう“心理劇”を強調した舞台とはかみ合わないだろう。
 今回、オーケストラ・ピットに入るのは、イギリスのエイジ・オブ・エンライトメント。あのサイモン・ラトルやフランス・ブリュッヘンらとたびたび共演している、世界でも有数の古楽器オーケストラである。より初演時に近い響きが期待されるという意味では、私はザルツブルクでピットに入ったウィーン・フィルよりも楽しみだ。なにより“フレーズが浮かび上がる”ような演奏を得意としているオケであることだし。

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 そして、指揮者はロンドン生まれのロビン・ティチアーティ。06年にザルツブルク音楽祭に最年少デビューを果たしたばかりの弱冠24歳だが、すでにラトル2世の呼び声も高い。さらに、こんな事実を思い起こすのだ。1786年5月1日、ウィーンのブルク劇場で《フィガロの結婚》が初演されたとき、モーツァルトはまだ30歳。そして初演の指揮者はモーツァルト自身だった――。円熟の巨匠による《フィガロ》も、もちろん味わい深いけれど、《フィガロ》を書き始めて指揮したときのモーツァルトは若かった。若さあふれる演奏の方が、本来の姿に近いのかもしれない。
 歌手については、フィガロ役のアレックス・エスポージトについてだけ触れておこう。今年8月、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルで《泥棒かささぎ》に出演、ヒロインの父親役を歌ったが、しっかりしたフォームと美しい響きで、いい発見をした、と強く思った。再会がとても楽しみだ。

>>ザルツブルク音楽祭制作『フィガロの結婚』 日本公演2008
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香原斗志(かはら・とし):音楽ジャーナリスト、オペラ評論家。オペラのわかりやすい解説と、声の分析に定評がある。公演プログラムや雑誌等への執筆多数。著書に『イタリアを旅する会話』。web上で「オペラの主人公たち」連載中。



2007-12-11 20:56 この記事だけ表示
 
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